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人に頼って怒られるばかりの人が読んだら幸せになれるかもしれない記事

「人に頼る」ということは、「自分にはできない」ということ。

では、「自分にはできない」と感じた時に、自分と相手のためになる選択を、管理人なりにまとめます。

 

 

 

 

・なぜ、できないのか

 

そもそも、できないことを自分の手でやることは非効率だしめんどくさい。という人は、こんな記事読んでも無駄です。お帰りください。

その効率の良さの尻拭いは、他人に必ず来ています。そのめんどくささは、他人が必ず肩代わりしてくれているものです。

それを何とも思わない人につける薬はありません。

 

 

知識がないからできない。経験がないからできない。だからそれらがある人に聞く。

まあ、それでも結果的に知識や経験になります。しかし、知識や経験というのは「発展してこそ価値があるのです。

 

コンピューターのプログラムは、1+1=2と教えても、その答えしかわかりません。2+2=4という発展系は、知らないからです。

しかし人間は違いますよね?

1+1=2という答えや法則から、試行錯誤を重ねて予測したり、新たなる答えを見つけることができます。

 

私は常々思います。1教えた人に3を質問されると、お前はプログラムかと。知能があるなら、「1教えたら10理解しろ」とまでは言わずとも、せめて1~5くらいは「考えて予測してみろ」と。

私は、「3+3は何なんですか?」という質問を投げられるより、「3+3=9ですか!?」 という質問をされた方が、例えアホみたいでも嬉しいですね。

そういう人の方が教えたくなるものでしょ?

私なら、「賢い部下」より「考える部下」の方が好きですよ。

 

 

その予測が間違いでも良いんです。それで怒られたならそれが学習です。素晴らしいことなのです。人生これをやっちまったら最後、とりかえしが絶対につかないというのは殺人くらいのものです。 思いっきり失敗してみましょう。

 

何?自分に失敗は許されない?貴方にそんな責任と影響力があると思っているのですか。それは、自惚れな意味での勘違いです。もし失敗してはいけないのに、自分にはわからないことをやらされ、失敗して取り返しがつかなくなったのであれば。それは失敗の危険性がある人物をそのような重大行為に巻き込んだ相手の責任です。だから、失敗だってしていい。

  

 

 

・失敗が許されないのか、一刻を争うのか

 

 

自分で「知らないこと」を「知っていることを材料にして」じっくり考え、己の力で結論を出し行動したならば、成功するも失敗するも、どちらにせよ良いことです。

 

自分の意思でやったことはどんな形であれ自分の経験になります。

 

ですが、考えている時間がない時。特に第三者を待たせている時などには、自分の経験や相手の機嫌を伺っている暇はありません。

ここでの1番のタブーは、恐らく「待たせる」ことでしょう。ですから、相手に質問するなり自分ですぐに行動してみるなり、最悪でも「第三者などに自分が必死に動いている」と認識させるのが無難であり礼儀でしょう。

 

 

 

・しないことはできない

 

 

先に「一刻を争うのか」と書きました。しかし、わからない疑問などがあればそれを一刻も解決したいというのは当たり前のことです。

 

だからすぐに相手に聞く。これは大間違いです。1番やってはいけない。

 

一刻を争うというのはあくまで相手や第三者目線での話。自分が早くしたいからという自己完結な都合の話ではありません。

 

そもそも、自分の時間がないから相手に聞くというのは、相手の時間を奪うことになります。

相手が同じように、一刻も早く何かしたいと考えている最中にそんなことをされたらどう思うでしょうね。

 

やったことがないからわからないのであれば、やればわかるようになります。

やったことがないからわからないからこそやらなければならないのです。

勉強とは他人から与えられる知識ではなく、自らの手で得た経験です。

 

人は瞑想でもしない限り24時間常に何かを考えています。24時間何かをしたがります。24時間欲の塊です。それらを整理し正さないと、暇なんてものは生まれません。暇がないというのは貴方が生み出そうとしていないだけの話なのです。 

考える時間は、あります。

 

 

 

続いて、怒られることはどういうことなのか。というテーマに移ります。

極端な話、あなたが何もできないのは

「相手に迷惑をかけるから」「失敗するべきではないから」ではなく

「怒られるのが怖いから」ではありませんか?

その幼稚な意思が、最も人々の怒りを誘うことになるのです。

 

 

 

・怒られるなら有意義に怒られろ

 

 

怒られるのは良いものではありません。相手も自分も嫌な気分になります。

しかし、あくまで感情的になってしまっただけの、中身のある「指導」と、ハナから間違えている自分に対する、中身のない「説教」は似て非なるものです。

 

指導は間違いなく自分のためになります。何かの方法を知れたり、仮に何か失敗したならその失敗の原因や解決策を、キツい言い方ながらも教えてくれるのが指導です。

 

しかし説教はどうでしょう。相手からしてあまりにも行動がおかしかったり、やり方以前の精神的な間違いなどに対する「単純な怒り」。それが説教です。これは知恵や経験となって残るものではありません。相手がよほど出来た人間であれば説教の中に指導を織り交ぜてくれる場合もありますが、その場合相手にはとてつもない負担がかかります。怒り狂いたい感情を殺して貴方のために論理性を保っているのですから。

 

怒られるのは必ずしも悪いことではありません。失敗は成功の母です。怒りを感心に変えるのはあなたの精神次第です。

 

 

 

・怒りの意味を理解する 

 

 

怒られることが必ず悪いことじゃないということはわかったはずです。

しかし気持ちの整理がつかないのが人間です。そんな時は、落ち着いた後でも良いです。少し論理的に考えてみましょう。

相手が怒った、その理由についてです。

 

 

自分が(1)という行動をしたら相手が怒った。

 

 

これについて、私の狭いオツムでパッと思いつく原因パターンは以下。

・そもそも機嫌が悪かった

・自分の考えた結論が間違いだった

・自分のやり方や態度に怒りを覚えた

まあこんなものですか。では、できるだけ論理的に感情整理していきましょう。

 

 

・そもそも機嫌が悪かった 

→ その理由が自分にあったとしても、それは(1)という行動に直結していない。

つまりポジティブに考えれば「仕方のないこと」です。(1)という行動は悪くない。

仮に自分が機嫌を悪くしたならば他の反省点がある。そこを探す。

 

 

・自分の考えた結論が間違いだった

→ (1)が間違いだったので、その時に同時に思いついていた(2)という行動、もしくはさらに他の行動が正解だったということ。

(1)の悪い点、(2)のメリット、答えとして有り得るさらに他の行動について考える。

 

 

・自分のやり方や態度に怒りを覚えた

→ これも、(1)という行動が悪いわけではなく、それ以前の問題。

これは自分が普段どういういけないことをしているのか理解しようとする必要がある。

ただ、これは相手にもよる。分からないことがあればすぐに聞けというスタンスの人もいれば、自分の力で考えいつまでも他人に頼るなというスタンスの人もいます。

なので、怒った相手と自分の性格などを少し考えてみよう。難しいが、行動選択の間違いではないわけだし、これらが理解できればこの先相手とうまくやっていきやすい。

 

 

怒りは双方向であってはなりません。お互いが怒ればそれは喧嘩です。

どちらかが最後まで論理的である必要がありますし、そうであれば救いもあります。

だから、せめて貴方は冷静でいましょう。平然とするのではなく、冷静に。

そりゃ嫌なことなんだろうけど、役に立つのであれば悪くないでしょ?

 

 

・まとめると

 

「失敗しても死ぬわけじゃない、考える時間は一瞬でもある」 

→ 失敗でもいいから絶対に考えろ。

 

「失敗したら人生の危機、時間の余裕も失敗の猶予も絶対にない!」 

→ 成功の確信があっても絶対に他人に聞け。

 

「おこられた(´・ω・`)」

→ それは良いことだ。

大事なのは「何故怒られたか。それならどうすればいいか。」必ず答えはある。

 

 

 

これにて終了でございます。

1回怒られてまた怒られるより、100回怒られてもう怒られなくなることを目指しましょう。何年かかろうと、最終的に、勝てばよかろうなのだ!!!

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